のパソコン遍歴

1.パソコン以前

 高専在学中にオリベッティの 「Programa 101」が導入された。後から考えてみればプログラム電卓の大きな物、それも初期の、非常に簡単な機能しかない玩具のような物だった。しかし指示したとおりに計算を実行し(文字どおり計算しかできなかった)結果を出してくれる、プログラムを実感できた。これがコンピュータと名の付くものに触った最初である。(1968)
 卒業後汎用コンピュータメーカーに就職し、小型から中型の汎用コンピュータでユティリティプログラムやアプリケーションプログラムを作っていた。使用言語はすべてアセンブラーである。最初に扱ったコンピュータはメインメモリが16~32kB、初期の8ビットパソコンと同程度である。小さいだけに隅から隅まで把握でき、コンピュータの動作原理がよく判った。OS(とは呼んでいなかったが)のソースプログラムまで参照でき、ハードに近いところまで動きが理解できた。
 5、6年はプログラムを作る仕事が多く、熱中していたが、次第にコンピュータに触ることが少なくなっていった。所属した部門の本来の仕事はプログラムを作ることではなく、システムの販売、システムの設計だからで、年数が立つにつれ本来の仕事になっていった(当然)。しかしプログラムを自分で作るのではなく、作らせる仕事はおもしろくない。
 次第にフラストレーションが溜まり、いつしかパチンコにのめり込んでゆく(^^; 定時後、休日、週に4、5日はパチンコということが数年続いた。そこに現れたのがワンボードマイコンであり、パーソナルコンピュータだった。これ以降パチンコは年に数回に減り、今は全くしていない。

2.ワンボードマイコン

 1977年(?)にNECからTK-80というワンボードマイコンキットが発売され、翌年MK-80という海賊版(?)が発売されたときにこれを購入した。Z-80互換のNECのマイコンが実装され、メモリは512バイト(kBではない)。表示機能は6桁の16進表示のLED。入力は16進キーボード。あとでメモリを1kBに増設し、カセットテープ入出力インタフェースも付けたが、これで1年以上遊べた。プログラムはすべて機械語で手作業で翻訳して16進数でキーボードから入力。これで何を計算させていたかは忘れた(^^; 1kBのメモリではあくまでもマイコンの勉強用で実用的な処理は無理ですね。

3.Apple][ plus との出会い

 1979年にはまともに使えそうなパソコンがいくつか発売された。PET101、TRS-80、Apple][、NECのなんとかCompo、日立のBasic Master、ハードスペック的にはBasic Masterもかなり魅力的だったのだが、プログラミング志向の小生としてはソフト、特にプログラミング言語が物足りない。その点はやはり舶来物に一日の長がある。
 結局年末近くに31万円まで下落した(春先は確か50万円以上していた)Apple][plus を購入。決め手はPascalが使えたこと、それにカラーグラフィック。(決してゲームソフトや、コピーソフトが多く出回っていたからではない(^^;)使い初めて、これぞ自分のためのコンピュータ、とはまってしまった。当初はカセットテープでプログラムのセーブをしていたが、大変だし、UCSD Pascalを動かすのにはフロッピードライブが必須と言うことで3カ月後に1台購入。しばらくそれで使っていたが、1台では不便だと言うことでさらに3カ月後に1台追加。当時のフロッピーディスクは5インチ130kBの容量で1台22万円!。プリンタも英数字しか打てない80桁のドットインパクトプリンタを22万円で購入。これは購入の2カ月後に17万円に値下げされ悔しい思いをした。UCSD Pascal自体も確か7万円位したし、何やかやで本体購入から1年半で年収に近い額を投入してしまった。

4.Apple][の増設、OS、プログラミング言語

 いろいろなプログラミング言語やOSを試したいのと、速度を向上させたいのとで、ハードウエアの増設が相次いだ。バンクメモリ付きのソフトカード(Z-80カード)を増設し、CP/M を動かした。次にモトローラの6809カードでFLEX。これはソフトが少なく、大して使えなかった。最後に本体と同じ6502の3倍速カード。
 これらのCPUの上で動かしたOSはすでに記したが、最初のUCSD Pasal も一つのOSと言ってよいかも知れない。言語については各CPUのアセンブラ、BASIC、PASCAL、FORTRAN、FORTH、LOGO、他にもあったような気がするが...
 これらのハードソフトで何をしていたかというと、OS使用法や言語の習得が中心。題材は日本しか無い地球儀とか、π や e の計算、4x4の魔法陣を解くプログラム等。特に魔法陣はすべての解880通りを確認するのにかかる時間をいかに速くするか、プログラムロジックだけでなく、コンパイラやハードも含めていろいろトライした。最初は付属のBASICインタプリタで数十時間かかっていたのが、Pascalではいくら、BASICコンパイラではどうとやって、最終的に3倍速カードで機械語で最適化したプログラムでは約10分までに収まったところまで実行した。最近の最速マックやWindowsマシンを使えばCコンパイラでも(表示のところを除けば)コンマ1秒以下だろう。
 このころ本業で香港への出張が多く、Apple][用のソフトもいくつかそこで購入した。価格はだいたい米国と日本の中間くらいだったと思う。まだパソコン街は形成されていなかったし、海賊版ソフトは爆発前夜という頃だった。ちなみに海賊版ソフトはほとんど(う~ん、ゼロではないな)購入しなかったし、他人からコピーさせてもらうこともしなかった。 コンピュータ業界に生きる者として、ソフトのコピーなんてとんでもない、自分の首を絞めることじゃないかという気概があった。

5.マッキントッシュ

 LISAが発表されたのが確か1983年だったと思う。機能的にはあのGUIに非常に魅力を感じたが、あのスピードとメモリサイズ(と価格)では実用にならんと、見るだけでじっと我慢。翌年Macintoshが発売されるも128kではやはり実用に耐えないだろうと、じっと待ち。さらに翌年512kバージョン(Fat Mac)が発売され、キャノンから日本語フォントROMを搭載した DynaMac が発売されるに及び、これなら何とか使えるだろうと購入。一緒に購入したImageWriter II で日本語を印刷できるので、実用度から言ってもApple][とは格段の差。ただしソフトはほとんど米国から直輸入の英語版なので、日本語の単語をはめ込む程度。まぁ、日本語のワープロは必要としていなかったが。プログラムはTurbo Pascalを使ってグラフィックを遊んでいた程度で、このころ何をしていたかあまり覚えていない(^^; GUI を楽しんでいたという事か。翌年Plus が発表されアップグレードもあった。海外駐在が決まっておりマックは持って行けそうもなかったのでどうしようか悩んだが、結局アップグレード、メモリは1MBになった。このころは1MBでもかなり使えたんだよな。

6.台湾駐在とPC/ATとの出会い

 1986年秋から台湾へ駐在。予定は2年だったが、結果的に1年延長して3年居た。現地関連会社製のPC/AT互換機(8086/8MHz)を購入。MS/DOS(バージョンは2.xだったと思う)、Turbo-PascalやTurbo-Prologを購入し、主にPrologや自然言語処理(英語ベース)の勉強。XENIXも導入してUNIXコマンドや、Cの勉強も始める。Cでマンデルブロー集合の計算をさせてカラーモニターに描画させたが、少し深くなると計算に数十時間もかかってしまうので、寝る前に起動して翌朝確認とか、翌日帰宅後確認などとやっていた(^^; 今のペンティアムマシンを使うと秒単位で終わってしまう。CPUの進歩を実感する。
 日本語ワープロはブラザーのワープロ専用機を購入して持参した。当時40字x5行以上を表示できる液晶を備え、第二水準の漢字を読みで呼出せるのは、ナショナルのと二機種しかなかった。これで1年間使っていたが、液晶が暗く目が疲れて視力がだいぶ衰えてしまった。そのため一時帰国したときに、東芝のJ3100GT(ダイナブックが出る前の物)という重いポータブルを購入し持込んだ。持込むときに税関で正直に申告したら(と言っても検査がきつかったから、申告しなくても見つかっていただろうが)6万円近い税金を納めることになってしまった。この機種はAT互換機でもあったので、台湾で購入したソフトもすべて動かせたのが嬉しかった。PCが2台になったことで1台を端末として動かしたり、ファイル転送などのテストにも使うことができた。これは本来の仕事にもずいぶん役立った。J3100GTは今でもあるが、最後に電源を入れたのは1995年か? 1.2MBのフロッピーディスクを読むために使ったのだ。
 1989年の帰国前にデスクトップの方を80286/20MHzのものに買換え、持帰った。当時は日本で同じようなものを揃えようとすると、2倍以上の費用がかかったのだ。その後DOS/Vが発表され、各社のDOS/Vマシンが発売されて価格破壊が発生したのはみなさんご承知の通り。

7.マックのアップグレード

 1989年に IIci が発売され年末に購入した。本体(4MBメモリ+100MB/HDD)とモニタ(Apple 13" RGBモニタ)を一緒に購入したが、約120万円もした。今ならとても手を出す気になれない金額だ(^^; IIci は当時の主力機種で拡張性もあり、長く使えた機種である。 今も本体だけは転がっている。モニタとキーボードさえ接なげば使えるようにはなっている。先日(99/01)ちゃんと動くのを確認した。 
 Mac plus はその後会社の同僚に売却。

8.PCコンパチ機のアップグレード

 1990年に仕事で香港に行ったついでに80486/25のマザーボードを購入し、入れ替え。海外での購入はこれが最後。その後秋葉でも入手が容易になり(価格もリーズナブルになり)翌1991年には秋葉で80486/50のマザーボードを購入、入れ替え。IBMからPC/DOS 4.x用のDOS/Vが発表されたのはこのころだったか、一度インストールしてみたものの使いにくいし、使い道も無いので1ヶ月ほどで削除してそれっきり。個人的には日本語が必要になる場面ってほとんど無かったし、少しの要求はマックでカバーできたし。後にOS/2は日本語版を購入し、今でも使える状態にあるがもう何年も使っていない。

9.UNIX

 すでに台湾時代からXENIXをインストールしてUNIXには触れていたが、仕事でも話題に上るようになり、自宅でも本格的に導入。PC側は SCO UNIX から始まり CONSENSYS(カナダ社のSYSTEM/V)、その後アップデートの問題もありフリーの LINUX 。業務用なら(或いはUNIXの基礎の勉強だけなら)SCO UNIXだけで十分なのだが、最新機能の勉強や、マルチメディア対応、最新ハードへの対応などと新機能を追いかけるには、やはりフリーでないときつい。
 マック側は IIci ではアップルのA/UX、後に購入した 840AV ではMachTen を動かした。 以上のシステムではUNIXそのものの勉強と、TCP/IP、C言語の勉強など。UNIX上のプログラミングでは実用的なものは作っていない。

10.LAN

 1991年にはイーサネットを導入し、PC/ATとIIci をLAN接続。UNIXでは比較的簡単だが、MS/DOSには市販のPC/TCPを組み込んだが、これの設定が結構大変。大変な分勉強にはなった。マック側はA/UXを使ったが、マックOSにすでにMacTCPが有ったかどうかは記憶にない(^^;
 当時はLANは今ほど一般的ではなく、各機器の価格もだいぶ高かった。今なら5000円以下で買えるハブの値段も6、7万円はしていたのでハブのいらない10BASE/2を選択。イーサーボードもPC用、マック用それぞれ購入したが、価格が半値以下の米国から個人輸入した。それでも今の国内価格の3、4倍はした。90年にニフティーサーブに加入するとともに、CompuServeにも加入したので、これや洋雑誌で情報を得て、ファックスで注文ということをした。これのためにファックスを導入したのだ。
 TCP/IPアプリケーションは実際に使ったのはftpのみ。マックとPCの間でも同室内にあるのだからFD渡しで十分なのだが、マック側でMS/DOSフォーマットのFDを使うのも面倒だったのと、1枚に収まらないデータを移動するときなどは便利に使えた。telnet は少し使ってみた程度。いずれにしろ隣にあるマシン同士なのでお遊びか。 あ、そうそう、X-Window も少しやってみた。同一PC内だけでなく別PCにて動かしたりした。

11.パソコン通信~インターネット & ISDN

 1990年にニフティサーブに加入。同時にCompuServeにも。2400bpsのモデムでマック、PC、ウインドウズ関連の会議室を回って主に情報収集。発言することはほとんどなかった。2400bpsだったので、常にオンラインで読みながら必要なところだけ読み込むことで、アクセス時間も5、6時間/月程度。CompuServeは1、2時間/月。1994年末にそれまで勤務していた職場を辞めフリーに。以後はすべて自前で情報収集しなければいけないので、14400bpsのモデムを導入。ニフティもComNiftyで自動巡回するようになった。 しかし回線の品質が悪いらしく、ほとんど9600bpsくらいの速度しかでない。インターネットにも興味が起き、28800bpsのモデムも出回り始めていたが、この回線状態では効率が悪いと判断し、ISDNを導入することに決めた。ISDNにはもっと前から興味があったのだが、ISDNで普通の電話が使えるかどうか情報が入手できなかったので、躊躇していたのだ。TA等が高価だったこともあるが。
 1995年2月にISDNに切替。TAは沖の PCLINK TA で速度は非同期38.4kbps。ニフティのISDNは9600bpsのみであり相変わらずモデムで接続。こちらは予定通り14400bpsがきちっと出た。
 インターネットは選択肢が少ない中で安かったBekkoameに加入。使うのは日中なので接続のしやすさは問題無し。まあ、使うのはftpで各社のサイトからフリーウエアやアップデータのダウンロードくらいで、使用時間も月10時間以下。その後は、64kのサポートと、快適性を追求してIIJを追加。いずれにしてもしばらくの間はftpがほとんど。iijはその後iij4uに契約変更。自分でホームページを作成したのは1998年4月。iij4uは5MBしか使えないのでここをベースにして、ニフティとBekkoame の3カ所を使用中。
 現在は64k同期接続でiij4uとbekkoame を使い分けている。bekkoameは年間1万円で時間無制限だがアクセスは7:00~20:00という契約になっている。iij4uも時間は無制限だが10時間までは1900円/月、20時間以上は4900円/月で中間は時間に応じて増えるので、20時以降使うときはiij4uで10時間以下に抑え、残りはbekkoameを使用している。(1999/09)

12.マックでプログラミング

 1986年にDynaMacを購入した直後からPascalでお遊びのプログラムを作り始めた。その後Cで作り始めたが、GUIになかなか馴染めずテキストブックに載っているサンプルを少し改造する程度にとどまっていた。「Macintosh C プログラミング(1)」を半分程度勉強したが挫折。1年後くらいに再挑戦して少し先に行ったところで又挫折。
 フリーになった後1995年春から本腰を入れて取り組み開始。「Macintosh C プログラミング(1)」を最後まで読み通し、数値地図を扱うプログラムを作成開始。8月に何とか公開できる物ができたのでニフティーのFYAMAPのライブラリにアップ。機能アップやGUIの改善を図って翌年1月に一応まともな物ができたので「数値地図Viewer」バージョン1とした。当時は「Think C」を使用していたがOS対応が遅れてきたこともあり(その後バージョンアップが全くストップ)、「CodeWarrior」に乗り換えて現在に至っている。言語は今でもCで、C++には何度か挑戦したが馴染めないし、PowerPlantはさらに難しい。最初からPowerPlantなら良かったのだろうけど、今からでは覚えることが多すぎて戦意が萎える(^^; SmallTalk を勉強したこともあるのでオブジェクトの考え方には違和感はないのだがPowerPlantのフレームワークを一から覚えるのは...
 最近(1999夏)「RealBasic」を購入した。これはPowerPlantに比べるとだいぶ取っつき易そうである。ユティリティなどはこれで挑戦してみよう。(1999/09) 

13. その後 (2009/2)

 10年ぶりの追記になりました。
 PC/AT互換機は全て廃棄し、Windowsマシンはゼロになった。わずかにMacOSX上で動くVirtualPC(これも過去のソフトだ)の下でMS Windows2000が動いているばかり。
 インターネットは光回線経由で速度も隔世の感。固定料金で時間も気にせずに使えるのはありがたい。しかし世の中YouTubeを初め、ビデオ画像が蔓延して渋滞が頻発。さらに悪化するのではないかと不安が出てきた。
 プログラミングの成果はこのサイトのコンテンツの通りです。言語は結局Cがメインですが最近はcocoa ( Object-C)に移行し始めています。Macの開発環境はCodeWarriorがポシャった後はAppleのXcodeしかなく(これがよくできているので他の必要が無いとも言える)、またMacの開発環境はcocoaが主流で移行するしかない状況でもあります。すでに昨年から全く新規のプログラムはcocoaで作成しています。
 還暦過ぎても勉強することはいっぱい。老いてる暇はないぞ!

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